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ボスニア語(ボスニアご、)は、南スラブ諸語に属する言語の標準形の一つであり、セルビア・クロアチア諸語のシュト方言が基本となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとする、旧ユーゴスラビア諸地域において、特にセルビア・クロアチア諸語を話すイスラム教徒の多くは自身をボシュニャク人と規定し、その母語をボスニア語と考えている。 ラテン文字による表記が標準的であるが、キリル文字の使用も可能である。「ボスニア語」という名前は、ボシュニャク人のボスニア語話者に共通に受け入れられており、また言語コードの規格ISO 639にもこの名前で掲載されている。 == 歴史 == ボスニア語は、ラテン文字とキリル文字を使用する。ボシュニャク人はさらに他の文字も使用・作成したが、標準とはならなかった。例として、ボスニア・キリル文字Bosančica(「ボスニア独自の文字」という意味)、Begovica(貴族用)を作った。また、アラビア文字をアレビツァと呼んで使用した。 皮肉にも、ボスニア人のボスニア語話者は、口語レベルの語彙においては、歴史的経緯により、言語学的にはセルビア語とクロアチア語と同じである。しかし、標準化は歴史的経緯から、最終的に19世紀まで失敗に終わった。なお、最初のボスニア語の辞書は、1631年にムハンマド・ヘヴァジ・ウスクフィ(Muhamed Hevaji Uskufi)により編纂された、ボスニア語とトルコ語の韻語語彙辞書である。 しかし、定期的に書かれ発行されたクロアチア語の辞書とは異なり、ウスクフィの辞書は孤立した単独のものだった。これには二つの理由がある。 #ボシュニャク人の知識人達は、書き物をしたり出版したりする時、たいてい外国語(アラビア語、トルコ語、ペルシャ語)を使用した。改変したアラビア文字で書かれたボスニア語の書籍は、少なく非常に希薄なものだった。 #ボシュニャク人のセルビア・クロアチアからの国家的解放はかなり遅れた。また、言語問題の本質は文化的なものではなく、宗派的なものであったので、独自のボスニア語についての計画は興味または支援を得にくかった。 19世紀及び20世紀の、ボシュニャク人のための言語の規定は、ボスニア・ヘルツェゴビナの外で書かれた。恐らく、普遍的なボスニャク人の書き手たち(世紀の変わり目には「ボスニャク人の復興」と呼ばれた)の語彙は、どちらかと言えばクロアチア寄りで(西部のイェ方言の語彙、ラテン文字)、ボスニア寄りではなかった。しかし、明確にそれと分かるボスニアのムスリムの特性(特に語彙)は備えていた。「ボスニャク人のルネッサンス」の主な著者は、碩学の人、かつ政治家で詩人でもあるサフヴェト=ベグ・ベシャギッチ(Safvet-beg Bašagić)と、『poète maudit』ムサ・チャジム・チャティッチ(Musa Ćazim Ćatić)、それに小説家エドヘム・ムラブディッチ(Edhem Mulabdić)である。 ユーゴスラビアが成立して政体が変化した時期の語彙は、セルビアの影響を大きく受け、ラテン文字が支配的になった。ユーゴスラビア崩壊後は、ボシュニャク人とボスニア人は、国家の標準言語としての「ボスニア語」の名の下に、元の語彙に立ち返った。 文章語においては、ボスニア語は1990〜2000年代頃から独特の姿を取り始めている。語彙はイスラム語系や東洋の言語からの借用語がかなり増えつつある。音声上・音韻上でも、特に音素/h/は、ボスニャク人の話法や慣例上の特徴として、多くの言葉で復活しつつある。さらに、文法、形態論、綴りに、第一次世界大戦前、20世紀初頭の「ボシュニャク人のルネッサンス」時代への回帰が見られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボスニア語」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bosnian language 」があります。 スポンサード リンク
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